「貧しいがゆえに死なねばならぬか」

≪2005年12月≫

 

2001年5月に有香は心臓の手術をしました。
先に手術をした友人から手術代について聞き、そのあまりの高額さに驚きました。有香の手術代は、そのお友達よりは安かったですが、それでもかなりの高額でした。
乳児医療とか育成医療のお陰で、親は大した負担もなく手術を受けさせることが出来るので有り難いなぁ~と思いました。当時、それ以上深くは考えませんでした。

 

 

時が流れ、2005年12月にあるテレビ番組を見ました。
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昭和41年、産経新聞に一通の投書が届いた。

投書には、家が貧しいために心臓の手術が受けられない少女の事が書かれており、このままではあと2~3年の命だという事だった。
しかし、投書に肝心の住所が書かれておらず、こちらから連絡を取る事ができない。
そこで、社会部部長の曽我は、記者の細谷にその手紙を渡してみた。情の厚い細谷なら何か掴めるのではないかと考えたのだ。

細谷はすぐに行動を開始した。
そして1週間後、ついに手紙を書いたという少女の叔父を探し出した。少女の名は明美ちゃんといった。
その叔父から明美ちゃんの所在を聞き出し、少女が暮らしているという鹿児島に飛んだ。

ついに明美ちゃんと対面する細谷。
しかし、明美ちゃんの爪は紫色に変色していた。血液中の酸素不足によってチアノーゼが出ていたのだ。

明美ちゃんの病名は『心室中隔欠損症』。
心室を区切る壁に先天的に穴が開いているために、動脈血と静脈血が混じり合い、体に十分な酸素が送られなくなる病気で、一刻も早い手術が必要だった。

しかし、費用は当時の金額で50万円。現在の貨幣価値になおすと、なんと500万円ものお金が必要だった。
そんな大金を用意できる経済的余裕はなく、医療保険の申請をしたが、共働きだからという理由で保険対象外となった。

これを知った細谷は、なんとか明美ちゃんを救う方法はないかと考え、この事を記事にする事にした。
「貧しいがゆえに死なねばならぬか」というタイトルのその記事を、社会面のトップに掲載した。

すると、翌日から事務所の電話が鳴りっぱなしになった。
記事を読んだ読者からの励ましの電話や、寄付を申し出る人も現れ、明美ちゃん宛ての手紙も多数寄せられた。
記事を掲載してから5日間で、なんと手術費50万円をはるかに上回る、351万円が寄付された。
手術も、心臓外科の世界的権威、東京女子医大の榊原仟教授が自ら執刀し、無事成功。

その後、明美ちゃんは大きな病気をする事無く成長し、看護士という道を選んだ。
そして、自分を助けてくれた細谷さんに会いに何度か新聞社を訪れたが、再会は果たせずにいた。

しかし、1991年3月、産経新聞を離れ、日本工業新聞の社長に就任した細谷さんとついに再会を果たした。出会ってから実に25年の月日が流れていた。

この明美ちゃんのケースをきっかけに、昭和41年「明美ちゃん基金」が設立され、現在も多くの子ども達の命が救われている。
そして、昭和41年当時、高度な心臓病の手術には保険が適用されなかったが、この基金のキャンペーンがきっかけとなり、先天的な心臓病の疾患には保険や公的控除が適用されるようになった。

 


先天的な心臓の疾患に保険が適用されるのは、先人の努力(苦労)があったからと知りました。

有香には命を大切にして、社会に役立つ人になってもらいたいと思います。また、そのような人に育てられる私になっていきたいと思います。