私が思う療育の「専門性」


玉井邦夫先生  (出典:学研 療育支援用品カタログ)

登山のガイドのようなもの

障害を持つ子どもの療育に携わる人間の専門性とは何か、と問われたとき、私はいつも「登山のガイドの資質」と答える。優れたガイドは、天候を予測し、登山者の体力と知識を推し量り、荷造りの助言をし、登山者を頂上まで導こうとする。しかしガイドはあくまでもガイドであって登山者自身ではない。登山者がこれ以上一歩たりとも動きたくないとしゃがみこんだ場合には、それ以上進むことはできない。その関係は、療育の専門職と親との関係に似ている。
子どもの障害を告知されてから、親たちはさまざまに嘆き苦しむ。「『障害』があるだけの普通の子」という認識に到達するまで、本来ならば子どもを育てていく上で大きなより所になるはずの「自らの育ち」と「子どもから発せられる喜怒哀楽のサイン」ですら、育児の参考にならないと思い込んでしまう。自分たちは「障害児」ではなかったから自分たちの育てられ方は役にたたない、この子には「障害」があるのだから何もかも自分たち親が仕組んであげなくてはならない、そんな誤解に陥ってしまう。そうした誤解の果てに、あたかも障害児の育児には唯一の「正解」があり、その正解を熟知している専門家に出会うことができれば、あとはその人が自分たちを約束の地に導いてくれるのではないかという幻想を抱いてしまう。いわば、ガイドが登山者を背負ったまま頂上まで連れて行ってくれると考えてしまうのである。


その子に適切な発達課題を見出すこと

優れた専門家とは、あくまでも親の心情に寄り添いながらも、こうした依存を拒み、自らの脚で歩くことだけが頂上への道であることを伝えていく。療育の場で行われているさまざまな訓練は、その子の発達の「例題」でしかない。「例題」で獲得した力が本当の解決力になるには、日常生活の中での「練習問題」の繰り返しが必要になる。個別訓練的な療育の場が提供しているのは、その子の生きる力そのものの獲得ではなく、その力の獲得に至る道筋を示し、今取り組んでいる発達課題の意味と、それが次にもたらすであろう生活の局面への予測なのである。
だとすれば、適切な療育訓練とは、その子と家族の生活文脈の中から発達課題を見出すことと、発達課題を生活の中の工夫に翻訳していくこととの、絶え間ない行き来の中で実現されるべきことだということになる。療育の必須アイテムである教材や遊具もまた、同様の視点で検討されるべきであろう。障害を持つ子どもたちのために開発される教材や遊具で獲得される力とは、本来ならば毎日の生活の中で獲得されるはずの力である。しかし、障害という特性が、そのような力の獲得に制約を与えてしまう。教材や遊具が、こうした制約をどうすり抜け、どのような工夫によってその力の獲得を効率化していけるのか、そのことが問われるのである。